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東京地方裁判所 昭和51年(行ウ)81号 判決

以下は、判例タイムズに掲載された記事をそのまま収録しています。オリジナルの判決文ではありません。

【判旨】

一<証拠>によれば、原告は、昭和二二年六月二一日中国山西省太原市において、日本人片山亘子(母。中国名陶有華)と中国人徐端(血統上の父)との間に出生したものであることが認められ、右認定を左右するに足りる証拠はない。

二そこで、原告の出生当時、片山亘子と徐端が婚姻関係にあつたか否かについて判断するに、<証拠>によれば、次の事実を認めることができる。

1 片山亘子(大正一四年一〇月一日生)は、昭和一八年単身中国に渡り、山西省大同で日本人の経営していた大同炭鉱に勤務中、終戦を迎えた。その後、山西省太原市の大同炭鉱時代の上司宅に身を寄せていたが、そのころ隣家の中国人である憲兵隊長李某の紹介で山西省政府統計所長兼太原特種警憲指揮所長の職にあつた徐端(当時三八才)と知り合い、同人の秘書となつた。当時、徐端には、太原市から汽車で二昼夜ほどを要する湖北省武昌市に妻と三人の子供がいたが、徐端が軍事活動に奔走していたため戦時中から別居状態が続いており、片山亘子もこのことを知つていた(もつとも、徐端に妻子がいることを知つていたものは太原市には少なかつた。)。

2 かくするうち、片山亘子と徐端は、昭和二一年三月一六日ごろから太原市内で同棲するに至つた(両名が昭和二一年ごろから同棲するに至つたことについては当事者間に争いがない。)が、徐端は、部下、友人等を招いて宴会を催し、その席上片山亘子を列席者に正式に紹介し、今後同女と生活する旨披露した。また、当時中国においては結婚した当事者が結婚証書なるものを作成する慣例があつたが、片山亘子と徐端も、両名が昭和二一年三月一六日に結婚の儀式を挙行し夫婦の契りを交わした旨記載した結婚証書を作成し、それぞれ押印をしたうえ、これに当時徐端の上司であつた山西省政府委員代理主席梁敦厚を含む四名が右結婚の証婚人、介紹人(仲人)又は主婚人(主宰者)として連判した。

3 その後、片山亘子と徐端は太原市で家庭生活を営み、徐端は国民政府側の幹部として共産党軍に対する活動に従事していたが、昭和二二年六月二一日片山亘子が徐端との間の子である原告を出産したところ、徐端は、同人の他の子につけたのと同じように「毅」の字を用いて原告を毅平と命名した。しかし、片山亘子は、原告の出生後、武昌市にいた徐端の妻子が太原市に移住してきてこれとの間に葛藤を生じたことや、山西省一帯に内乱が激しくなつたことから、日本に帰国することとし、昭和二二年一二月ごろ、原告とともに帰国した。

4 帰日後も、徐端との間には文通がされており、片山亘子は内乱が収拾されれば再び中国に渡つて徐端と生活する希望をもつていたが、徐端は昭和二四年四月二四日共産党軍との戦闘で死亡するに至つた。片山亘子は、これに先立つ昭和二三年五月五日徐端との婚姻届を作成して、岡山市役所に提出しており、更に同二五年一二月四日徐端との婚姻を理由とする中華民国駐日代表団僑務所長の国籍証明書を得て日本国籍喪失の届出をし、以来中国人として日本で原告を養育してきた(原告の出生届は昭和三一年七月二八日中華民国大阪領事館に提出された。)。

5 太原の戦闘で死亡した徐端らは「太原五百完人」として台湾にまつられているが、毎年行われる大祭には、片山亘子が徐端の妻として出席している。

以上のとおり認められ、右認定を覆すに足りる証拠はない。

右事実によれば、徐端には既に妻子がいたとはいうものの、遠隔地にあつて長く別居状態を続けていたのであるから、同人と片山亘子が新たに婚姻関係を形成する意思をもつことがありえないとはいえず、しかも両名は徐端の上司である政府関係の高官を証婚人とする形式の整つた結婚証書まで作成し、更には結婚披露宴ともいうべき招宴を催したうえで共同生活に入つているのである。また、両名の共同生活が一年半余で事実上解消したのは、前記のとおりいわば予想外の事情によるもので、当初から一時的な結合を予定していたものとは認められない。これらのことと、片山亘子が帰日後直ちに婚姻届の提出等徐端との婚姻の成立を前提とする諸手続をとつていることや、<証拠>の徐端からの手紙の内容などを合わせ考えると、片山亘子と徐端とは、互いに夫婦としての精神的・肉体的関係を成立させる意思のもとに共同生活を営んだものと推認するのが相当であつて、当時の在中国日本人の置かれた特殊な立場を考慮してもなお、右両名の関係を、単なる情交関係であつたとか、あるいは原告の主張するようないわゆる妾関係であつたとみるのは、相当でないというべきである。<証拠判断略>

次に、<証拠>によれば、当時の中国民法においては、婚姻の方式として公開の儀式及び二人以上の証人を有することを要し(九八二条)、右方式を具備しない婚姻は無効とされていた(九八八条一号)ことが認められるところ、<証拠>中には、結婚の儀式をとり行つていない旨の記載及び供述部分がある。しかしながら、弁論の全趣旨によれば、両名が婚姻した当時、山西省一帯は既に内乱状態にあつたことが認められ、そのような状況下においては結婚の儀式も相当程度簡略化されたものであつたことが窺われることと、<証拠>及び認定した結婚披露のための招宴の事実などを考慮すれば、片山亘子と徐端の両名は、婚姻に際し、最小限度必要な儀式等だけはこれを行つたものと推認すべきであつて、<証拠判断略>。他に両名の婚姻が法定の方式を具備していなかつたことを認めるに足りる証拠はない。

更は、<証拠>によれば、民国二三年(昭和九年)一一月国民政府行政院頒布にかかる「陸海空軍軍人及び外交官員と外国国籍女性との結婚管理法」が、「今後、陸海空軍軍人及び外交官と外国国籍女性との結婚は禁止する。既に外国国籍女性と結婚している者を陸海空軍軍人及び外交官に任じることができない。」と定めていることが認められる。しかしながら、同法は右禁止に違反した婚姻の効力についてなんら定めておらず、中国民法上婚姻が無効とされるのは同民法九八二条の方式を具備しないとき及び同民法九八三条に規定する親族結婚の制限に違反するときの二つの場合だけであること(同民法九八八条)、昭和二七年に施行された「戦乱時期陸海空軍軍人婚姻条例」においても軍人の非中国籍女性との婚姻が禁止されているが、同条例は右禁止に違反した婚姻を無効とする旨明確に規定していること(このことは<証拠>によつて認めることができる。)と対比すると、その旨の明文の規定を欠く以上、右結婚管理法に違反する婚姻が直ちに無効であると解することはできない。このことは、既に認定したように、片山亘子が徐端との婚姻を理由として中華民国駐日代表団僑務所長から中華民国の国籍証明書の交付を受けていることからいつても、十分首肯しうるところである。したがつて、仮に片山亘子と徐端との婚姻が右結婚管理法に違反していたとしても、その婚姻が無効であつたということはできない。

三以上のとおりであつて、原告の出生当時、片山亘子との徐端とは有効な婚姻関係であつたものであるから、その間に出生した原告と徐端とは法律上の父子であつて、原告は旧国籍法三条所定の「父カ知レサル場合」に当たるということはできず、同条によつて日本国籍を取得したとする原告の主張は理由がない。<以下、省略>

(佐藤繁 中根勝士 佐藤久夫)

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